2022.11.3(祝) オリックス・バファローズ 日本一  
 
 
日本シリーズは激戦の末、オリックスが優勝しました。26年ぶりの日本一です。
 パ・リーグ優勝と日本シリーズ優勝を勝ち取り、パーフェクトな日本一です。プロ野球ファンが、この日本シリーズをどのように注目したかは、おそらく様々で、オリックスとヤクルトのファンには、どっちにしても疲れる試合観戦だったに違いない。私も、毎試合テレビ観戦ではあったが、日々の応援には力が入りました。

 まず、自己紹介をしておくと、私は現在、阪神タイガースとオリックス・バファローズのファンです。過去に会社勤務時代の全国転勤のおかげで、ご当地のチームのファンだったこともあります。
 もうひとつ、時代を振り返ると、オリックスは、オリックス・ブルーウェーブと近鉄バファローズが統合してできたチームですから、その両チームについて、私に関わりがあることを思い返してみます。

 1979年にパ・リーグで初優勝したのが近鉄バファローズでした。私が神奈川県から大阪への転勤で、近鉄沿線の社宅に転居した直後の優勝でした。西本監督の時代です。
 1995年、神戸に本拠地を置くオリックス・ブルーウェーブがパ・リーグ初優勝しました。阪神・淡路大震災の年に「頑張ろう神戸」のワッペンを付けて戦いました。仰木監督、イチロー全盛期です。私はその震災の時から3年間神戸勤務でしたから、ここでも初優勝を呼ぶ男と自分勝手に称しております。翌1996年にはリーグ優勝と、日本一になりました。
 その年、つまり26年前の9月、その日は休日でリーグ戦終盤の昼間の試合、オリックス対日本ハム戦。勝てば優勝の試合には、チケットがない人も大勢駆けつけ、私もその一人でした。最終回までリードを許していて、9回裏に、同点に追いつき逆転サヨナラ勝利でリーグ優勝。さらに日本シリーズでは、私は夜の肌寒いグリーンスタジアム神戸1塁側内野席で巨人を破っての日本一の瞬間を見届けました。

 2001年のパ・リーグ優勝は近鉄バファローズ。梨田監督。近鉄球団は最後の優勝。球団は初優勝ではないものの、めったに優勝しないチームに、この年、私が福岡から大阪に転勤して、大阪近鉄に優勝を呼び込んだと自負しております。その時の優勝決定の試合も劇的でした。大阪ドームの外野席にいた私は、9回裏に3点ビハインドで1死満塁のチャンスに、ワクワクして予感を感じていました。代打北川の、代打・満塁・逆転・サヨナラホームランのボールが、立って応援している私の席の方に、大歓声に乗ってまっしぐらに向かってきました。ボールは2列前の所に着地しました。あとで、そのボールを拾った人にお伺いして、少しだけ触らせてもらいました。
 余談ですが、私の優勝呼び込み男は、福岡に勤務した3年間にも実現しました。ダイエー・ホークスの初優勝は私が福岡に単身赴任でいた時です。3年間で2回もリーグ優勝しています。
 
 近鉄もオリックスも、私にとっては大切な思い出の球団であり、両球団が合併してできたオリックス・バファローズが26年ぶりの日本一を達成したことは、何よりもうれしいことです。なお、近鉄バファローズは日本一になったことがないので、某ラジオのアナウンサーは「オリックス26年ぶりの日本一、バファローズとしては初の日本一」と言っていました。オリックス・バファローズは、やや地味で、阪神に比べたらお金がないし、ファンも優勝したからと言って、道頓堀に飛び込むような過激な輩もいない。きょう御堂筋で行われたパレードが、イルミネーションに飾られて、静かに、しめやかに、暖かい雰囲気で良かったと思います。震災の後の優勝と、その時の神戸ルミナリエの灯り、コロナ自粛のあとの御堂筋パレード。つながっている感じです。


2022.10.16(日) 誤審  
 
 
私は、プロ野球のファンです。どこのチームのファンか、というと、今は地元の阪神タイガースとオリックスバファローズ、ということになります。会社員として長年、転勤・転居を繰り返し、その都度ひいきのチームが変わってきた経緯もあります。
 さて、きょうは、どうしても気になってしまうことがあり、ここに書いてストレス解消としたいので、どれだけの方々が読んでいただけるかわかりませんが、書きます。
 クライマックスシリーズのファイナルステージが昨日で終わり、セリーグはヤクルト、パリーグはオリックスが勝利し、来る日本シリーズに駒を進めました。実力通りの勝負の結果がここまで来ています。

 セリーグのファイナルステージ、ヤクルト対阪神の対戦は、私が推す阪神のことでもあり、注目し応援しておりました。
 第1戦の12日、初回に3点を取られる不利な展開の直後、阪神は無死2塁から原口がファウルで粘りに粘ってフォアボールを取ったかに見えたその時、審判の判定がスゥイング(空振り)となり、アウト。その回のチャンスは拡がることなく無得点。その後も試合はヤクルトのペースで進み、阪神は大事な初戦を落としました。原口のスウィング判定問題は、ネットをにぎわせ、野球関係者からも「あれは絶対に振っていない」という意見がほとんどでした。アメリカのメディアでも取り上げられたとか。この時のラジオ解説者は、これがもし四球で無死1・2塁なら試合の流れは大きく変わったと言いました。

 第3戦14日の試合は、これに負けたら阪神は今年の戦いを終了する崖っぷちの試合でした。エース青柳の粘りの投球で6回まで無失点。阪神3点リードの展開でした。7回も抑えれば阪神の自慢の投手陣が最後まで無失点で抑え勝利が見えてくるパターンです。ところが7回のヤクルトの攻撃で、1死走者無しのとき、打者サンタナの場面。フルカウントからインコースのボール球をハーフスィングした打者。主審はジャッジせず、1塁塁審に判定を委ね、塁審はセーフのジェスチャー。四球となりました。その時、投手の青柳は口をとがらせ、首をかしげる。この回のその後の展開は、四死球、ヒット、エラーが盛りだくさんで、一挙5点を献上し、そのまま逆転負けとなったのであります。グランド上でヤクルトの村上が笑っているシーンが大写しになりました。この試合の敗因は阪神らしい守備の乱れと評されています。しかし、私は、それもそうだが、目立たないけれど、最も大きな試合の流れを変える要因は、サンタナのハーフスィングの判定だったと思います。フジテレビの放送では、ていねいに、VTRで横からのスロー映像を見せてくれました。解説者もアナウンサーも、この時にコメントはありませんでしたが、どう見てもバットは回っています。三振でアウトです。次の打者は内野ゴロで凡退したので結果論的にも、この回は無得点。つまり一挙逆転となる5点は無かったのです。

 ルール上、スウィングの判定は、主審が判断できないときは塁審に委ね、指示を受けた塁審の判定で決まります。塁審の判定が、誰が見ても間違いな判定であってもです。特にスウィングの瞬間は、まさに瞬きの一瞬ですから塁審だって瞬きをするその時かもしれません。しかし誤審でもルール上は正しい判定と認めざるを得ません。ストライク・ボールの判定とスウィングの判定については、リクエスト(ビデオ判定)の対象外となっていますので、これに対しクレームをつけることはできません。
 確かに、ストライクの判定にいちいちビデオ判定をしたら、試合時間が長くなります。また、アメリカのメジャーリーグで試験的にデータを取ると、これらの判定は、機械的な判定と比べてみたら、1割ぐらいは誤判定だろうと言われています。誤審だらけなんですね。それを前提に、気にせずにプレーを続けられるか、引きずるのか、それで負けた阪神の弱さが今シリーズに出てしまった結果です。
 プロ野球を見る楽しみに水を差すこの問題。スウィング判定の問題が最近2件も、勝負を左右する場面で起きたので、今後に向けてルールの検討が行われても良いのではないか、とぼやく次第です。



2021.12.23(木) 第九 
 
 
 
ベートーベン作曲交響曲第九番「合唱」。第九といえば概ねこの曲のことだが、たまにマニアックな人がドヴォルザークの交響曲第九番「新世界より」も第九だというので一応気を付けておく。「新世界より」なら私のような音楽素人にもなじみの曲なのでよく聴く機会があるが、わたしはこれを第九と呼んだことはありません。

 さて、本家ベートーベンの第九に初めて興味を持ったのは、遡ること中学校の音楽の授業でした。大みそかのNHK紅白歌合戦の裏番組でNHK教育テレビは第九の演奏を放送していること、ベートーベンが初演の指揮をしたが聴力を失っているので曲が終わってもまだ指揮棒を振っていたこと、オリンピックの東西ドイツ統一選手団が表彰式の国歌に「喜びの歌」を使ったこと、などを男性の音楽の先生が教えてくれた。それを70歳になった今でも記憶しているぐらいに、衝撃的な授業だったのです。
 ただ、その後も紅白の裏番組を聴くことはなく、そのうち、大みそかの教育テレビも第九ではなくなりました。また、私の生まれ育った北海道八雲町では、クラシック音楽に触れる機会すらないので、コンサートでナマの第九を聴く機会は夢のまた夢の世界でした。
 
 社会人になってから、年末の度に第九のコンサートに行きました。大阪に始まり、転勤で神奈川県に行ってからも東京で、合わせて何度行ったかわからない。数えきれません。
 どのコンサートも合唱団の人数の多さを競うようになって、最大では、大阪フェスティバルホールでの大阪フィルで数百人の合唱だったと思う。
 1983年12月3日、歴史的な第九演奏会が行われました。「一万人の第九」。大阪城ホールを使って合唱団一万人の大プロジェクトである。私はそれをこの目で見ることができました。観客全員を対象に、本番前に合唱指導があり、メインの部分は観客も全員立って歌ったのです。翌日の新聞で知ったのだが、その時の合唱団は1万人に満たず、観客も含めての1万人以上の合唱だったそうです。
 このプロジェクトの成功から毎年、毎日放送とサントリーの肝いりで開催されているのが「一万人の第九」なのだ。私もこの「一万人の第九」には合唱で参加することができました。回数はしかっり記憶していないが、5回ぐらいだろうか。私が参加を始めた頃以降、合唱団の募集は抽選とか先着順とかで、希望しても参加できない希少価値のある体験となる。
 コロナ渦で最近2年は、リモートの合唱を事前に集め、編集して、リアルの演奏と合体させているのを私はテレビ番組で見ました。音楽はテンポが指揮者次第で変わるので、それを1万人の事前収録と合わせるなんて、どうやっても無理と考えたと思うが、それができてしまうのは、佐渡裕さんの第九にかける情熱と毎日放送の技術力でしょう。

 ライブで観客として大阪城ホールで一万人の合唱を聴いた時に感じたのだが、長い楕円形のホールの端から端まで100メートルあるとすると、音速で約0.3秒の時差が生じる。全員が指揮者を見てテンポを正確に歌っても、聴く観客の耳にはずれて聞こえる。それでも、大人数の怒涛の合唱が大波のように襲ってくる迫力で感動できる。そもそも、「一万人の第九」コンサートは、観客が圧倒的に少ない。ホール内の席の大部分を合唱団が占めるので、観客席はせいぜい4千人。合唱に出演する人1万人の、その家族が見に行きたいと思っても、抽選なのだ。概算だが、4人の合唱出演者のうち、1人だけが家族か知人ペアに見に来てもらえる計算になる。一般発売が全然買えないのは仕方がない。

 他の場所でも第九に合唱参加する機会がありました。東京の国技館の「5千人の第九」と、福岡大宰府政庁跡で開催された屋外での第九演奏会。

 さて、場面は変わるが、2016年5月、私はかねて念願のウィーンに旅行したとき、ベートーベンや有名音楽家の墓参りをして、ゆかりの地を訪ねました。郊外の温泉地バーデンへ列車で行って、街を散策し、ベートーベンが住んで第九を作曲した家を見学しました。そこには、ピアノや楽譜などの遺品もあり、ミニシアターのようなテレビのある部屋ではロンドンのロイヤルアルバートホールでの第九演奏会の中にいる感覚で鑑賞することができて、その時ちょうどその部屋に誰も他にいなかったので、私はマジでフルコーラスを歌い切りました。
 ベートーベンが第九を作曲したその家で、第九の合唱を歌ったのでした。満足です。ウィーンに旅行に行く人で、バーデンに足を延ばす人は少ないと思う。限られた旅の日程で、個人旅行ならではの勝手きままに、ベートーベンが歩いたと思われる道を散歩し、温泉に入り、この家に入って過ごした時間は忘れられません。なお、温泉は、ヨーロッパの温泉特有の低温の温泉でした。日本人にとって、これは温泉ではないと思いました。

↑ウィーン郊外バーデンにあるベートーベンハウス。   2016年5月
 


2020.5.2(土) 万博から50年 
 
 
 
1970年の大阪万博から50年。会場跡地の万博記念公園は今も私の憩いの場で、私の人生の大半を支えてきた心のよりどころでもある。

 50年前、社会人となって万博開催中の大阪に住み、平日の夜や休日に幾度も万博会場へ足を運び、日本や世界の新しい技術、楽しい展示に触れ、「今しかない」機会に貴重な体験をしたものです。
 
 前年の秋にアメリカのアポロ11号が人類初の月面着陸し持ち帰った「月の石」をこの目で見ました。
 電気通信館では、携帯電話の原型になる電話機の体験コーナーがあり、当時は高額だった郷里への電話を無料で長時間、何度もかけることができました。
 
 大阪の地下鉄御堂筋線は、北大阪急行電鉄に乗り入れていて、現在は千里中央が終点だが、万博開催中当時、終点は「万国博中央口」駅で、会場へのアクセスはいつもその線でした。

 早いもので、それから半世紀、50年の間に、日本にも世界にもいろいろなことがありました。歴史の詰まった50年を、何もなかったかのように、当時のままの敷地を保って、記念公園が様々な記憶を抱擁しているようです。

 万博公園の広い芝生の広場を歩き、木陰のベンチに腰をかけて休憩するとき、何を思うかといえば、ここが私の第二の人生の出発点、私の第二のふるさとなんだと。つまり、特に用が無くても時々行ってみたくなる場所なのです。



バックナンバー

最近思うこと(日記・エッセイ)