2017.8.28(火) 足蹴り事件  

 第99回全国高等学校野球選手権大会が閉幕しました。埼玉代表の花咲徳栄が優勝。
 私の予想では、大阪桐蔭か広陵だったので、やや予想外の、つまらない展開になった今大会でした。

 8月19日(土)の第4試合。大阪桐蔭が仙台育英にサヨナラ負けを喫した試合に、とても残念な内容があったので、怒りが少し落ち着いたところで分析しながら書きます。

 大阪桐蔭の1塁手は2年生。試合中盤の、内野ゴロを内野手から1塁手へ送球されアウトになった場面で、仙台育英の打者走者は懸命に1塁ベースに駆け込み、右足でベースを踏むがタイミング的に完全なアウト。その時、打者走者は、1塁ベースに付いている1塁手の足を、ベースを踏むほうとは反対の足、即ち左足で蹴って駆け抜けた。判定はアウトなので、ルール上もめることもないのだが、1塁手は負傷し大変な事態になった。

 1塁手というものは、内野手からの送球を捕球するとき、片足を1塁ベースに付けている。打者走者は猛スピードで駆け込んでくるが、まさかその足を踏まれたり蹴られたりすることは無いと信用し、しっかりと足をつけている。プロ野球なら、ベースに付けた足を、捕球した直後に素早く離してしまうが、高校生の野球では、それよりもしっかりと足を付けてアウトを取ることが基本だ。但し、1塁手の足と打者走者の足が接触するのを避けるために、1塁手はベースの横に足を付ける。この時もそうしていた。
 まさか踏まれたり蹴られたりすることは無いと信じて野球をしてきた1塁手にとって、これは一大事であり、野球のやり方を根本から変えなければならないと、身をもって知らされたのである。
 この事件が伏線となり、9回裏2アウトの守りの場面で、1塁手の足がベースから離れていてセーフとなり、その後の逆転サヨナラゲームにつながる結果となる。

 足蹴りをした打者走者は、もちろん故意ではなく、懸命にセーフになろうと走り込んだ流れの中で無意識に左足が接触してしまったのだ。実はこの選手、前の試合(日本文理戦)でも、ほぼ同じような足蹴りをしているが、その時は大事に至らなかった。
 故意ではなくても、結果が重大なので、サッカーならレッドカードでもよいぐらいのものだと思う。しかし野球のルールでは何も無い。これがもしセーフになったりしたケースでも、守備妨害でアウトになるのがせいぜいだろう。

 この選手を責めるつもりはない。この選手に野球を教えている監督の責任を問いたい。1塁手が走路を塞いだのならともかく、普通のケースで、無意識であろうと1塁手の足を蹴ってしまうような走塁の仕方をしないよう、厳しく懲らしめて指導するのが監督の最低限の役割だと思う。少し前の甲子園大会の開会式のスタンドで、たまたまその監督が私の席の近くに関係者といっしょに座っておられて、いやおうなく会話が聞こえてきたことがあったのだが、その雰囲気から、高校野球の監督としてどうなのかなと疑問を感じる面があった。それで、ああ、あの監督かと思いを新たにしたところなのです。大阪桐蔭に逆転勝ちをして、その次の試合に、なんと、監督は問題の足蹴り選手をスタメンから外した。その理由は語られていないが、監督自身が、あるいはその選手がこれ以上非難されないようにとった措置で、結局、当該の足蹴り選手を苦しめることになった。
 
 春夏連覇がかかる大阪桐蔭にとって、この事件のあとの試合展開での対応がうまくできなかったとして、西谷監督は「敗戦は私の責任」と反省の弁を述べている。仙台育英の監督からは一切反省の弁は無い。
 高校野球に対して一石を投じてしまったかもしれないこの事件。これからは、1塁手はベースに足を付けても蹴られることがあると考えてプレーをしなければならないことになる。これによって大阪桐蔭は勝利を逃し、史上初2度目の春夏連続優勝を逃したのだから。
 足を蹴られた1塁手の選手は、9回裏の「足離れセーフ」について、蹴られたプレーとは関係ないと言っている。大阪桐蔭の守備は、ノック練習でも試合でも数多く見てきたが、極めて良く練習を積んだチームであり、ごく普通のケースで、1塁手がベースに足を付けずに捕球するなどという凡ミスは、千回に1回もないチームなのだ。最終回、1点差、あと一つのアウトで勝利という特別な場面だから起きたものだが、その選手をその日急に襲った「足は蹴られるかも」という体が覚えた条件反射がそうさせたのかもしれない。

 一高校野球ファンとして、記憶に残る試合の一つでした。
 優勝したチーム以外は、全てのチームがこの夏の大会で1度だけ「敗戦」を喫しています。その負けた試合が人生の糧となる試合であり、絶対に忘れないことと思います。仙台育英は、大阪桐蔭に逆転勝ちしたその試合こそ、夢のようだと喜んでるのではなくて、色々なことを学んだ記憶に留めるべき試合と位置づけてほしいと思います。



2017.4.23(日) 真央ちゃんの14年間 
 

 3年ぶりに、この欄に書きこみます。最近は、つい手軽なブログを利用しておりますので、こちらの記事は、思い切り構えて書く記事になります。
 ブログはこちら(https://blogs.yahoo.co.jp/usubuchi42/MYBLOG/yblog.html)ですのでよろしくお願いします。
 さて、今回のテーマは、最近引退表明をした浅田真央ちゃんと私。私にとっての真央ちゃんを振り返って整理しておきたいと思います。

 2002年12月22日。この時の全日本フィギュアスケート選手権大会が初めて真央ちゃんを見た日でした。
 私がフィギュアスケートの大会をナマで見たのは、この時が初めてでした。京都アクアリーナで開催されたその大会に、真央ちゃんは小学6年生ながら特別枠で全日本選手権初出場でした。この大会は、日本のフィギュアの黄金期の幕開けと言える大会で、後年の女子フィギュア界の主要メンバーが上位に名を連ねました。村主章枝、荒川静香、安藤美姫、鈴木明子など。ちなみにこの大会の入場券は自由席で、当日でも買えました。今では考えられない状況でした。
 3連続3回転ジャンプという世界初の技を見せてくれた真央ちゃん。その衝撃は今でも記憶に残ります。その後、全日本の舞台の常連となり、世界大会も欠かさず、オリンピック出場年齢制限の議論を呼び、ようやく挑戦したバンクーバー五輪ではキム・ヨナに敗れて銀メダル。再度挑戦したソチ五輪ではショートプログラムの失敗で惨敗。これをもってピークを越えた真央ちゃんの活躍は終えたと私は感じておりました。最後は、もう無理をしないでほしいと、我が子か孫を見る思いでした。

 14年経ちました。真央ちゃんが出場する大会やアイスショーを、ナマで見た回数は数えきれません。一度は海外の大会にも行きました。但し、一人のファンとして観てきただけで、直接お話しをしたことも、握手をしたこともありません。しかし、私にとっては、真央ちゃんの挑戦と挫折の繰り返しを見るにつけ、美しさと力強さに感動し、私の生きがいとして、ともに頑張ってきたような存在です。

 世界選手権、全日本選手権では何度も優勝したが、オリンピックだけは勝てませんでした。それで良かったと思います。全てがうまく行くなんてあり得ません。失敗と挑戦を繰り返す人こそが、美しい。まだまだ、次の挑戦に向かって、これからもいろんな場面で活躍してほしい。子か孫を見守る思いです。

 


 
 

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