2010.10.16(土) 今年のコスモスは最高  

 

 万博公園恒例の「コスモス・フェスタ」開催中。
 長年ここでコスモスを見てきたが、今年のコスモスは過去最高(私の独断の感想)の出来栄えなのだ。
 異常気象の夏だったが、コスモスには、むしろ好条件だったのか。さらに面積を広げて、色の組み合わせも上手くできている。今が満開のゾーンと、まだこれからのゾーンがあり、順次咲くように種まきから時期を調整しているようだ。


2010.8.21(土) 甲子園・決勝戦 
 

 甲子園で高校野球の試合は数知れず見たが、実は決勝戦は初めて。今年は休日だから見に行けたことになる。
 沖縄の興南と神奈川の東海大相模の対戦。午後1時からの試合だが、さて、何時に行ったらいいものか、適当に考えて、開門が10時となっているから9時半頃までに甲子園へ行けばいい、と決め、8時過ぎに出かけた。混雑すると開門は繰り上げられるのが通例なのだが、きょうは8時40分に開門となったそうだ。9時に阪神電車の梅田駅では「本日の甲子園は現在満員で、チケットの無い方は入場できません」と大げさなアナウンス。そんなことをここで言われても、引き返すわけにはいかない。案の定、行ってみたら何とかなった。

 それにしても、さすが決勝戦。沖縄の応援はスゴイ。大阪は沖縄県出身の人が多く住んでいるところでもあり、それに休日だから、試合の前の席の埋まり具合は私にとって前代未聞。甲子園球場が、異様な雰囲気になってきた。今大会もこれまで3回足を運んだが、こんな雰囲気は初めてだ。これが決勝戦か。

 試合が始まるとさらに気持ちが高ぶる。場内の熱気は、タダでも炎天下で熱い上に、応援の熱気が重なり、一球ごとに歓声、拍手が、最初から最後まで続くから、どちらの応援というわけでもなく見ている私も、一球ごとに力が入る。興南の怒涛の攻撃になると大変な歓声になる。
 
 閉会式まで見せてもらって、ゆっくり帰宅して夕食に間に合う。土曜日の過ごし方としては、十分価値のある一日だった。





 

2010.3.20(土) IPラジオ  

 「IPラジオ」の試験放送が行われていて、時どき聴いているのだが、これがまた感動的なのである。「パソコンで聴くラジオ放送」、言わば「ラジオのデジタル放送」みたいなもので、音声がとてもきれいだ。AMラジオの放送というものは、きれいに聴こえるはずはないものと思っていたので、まるでFM放送のようにクリアーな音楽、会話が驚きだ。
 パソコンをしながら、ラジオ放送を聴く機会は、さほど多くはない。ただ、とにかく、一切の雑音がなくきれいな音声は、一度聴いてみる価値ありです。どういう仕組なのかよくわからないが、インターネットのサイトにアクセスするだけで聴けるので手軽だ。但し、インターネットだからどこからでもアクセスできそうなものだが、そうではなくて、関東と関西だけしか聴けない。大阪では関西の局は聴けるが関東の局は聴けない。それから、NHKは入っていない。そして、パソコンでしか聴けない。    サイトの検索は「ラジコ」で。


2010.3.14(日) 電動アシスト自転車、初体験  

 きょうは万博公園へ行くルートを自転車に。本日開業の阪急摂津市駅のレンタサイクルを利用し、新品おろしたての電動アシスト自転車に乗ることになった。片道、徒歩なら55分、普通の自転車なら30分かかるところだが、20分以内で到着。初めて乗った感想は、足の太ももが楽で運動にならない。でもこれなら遠くまで行く気力が起きる。気持を前向きにさせてくれる自転車です。借りた翌朝の10時までに返却すれば400円。但し、本日無料サービスで、ありがたいことに、タダで利用させてもらった。

万博競技場の前にて

2010.3.14(日) 阪急「摂津市」駅開業  

 ようやく空が明るくなってきた早朝、真新しいがシンプルで飾り気のない駅のホームに、あずき色の阪急電車が停まり、そして程なく発車して行った。阪急京都線に新しくできた「摂津市」駅。一番電車ではないが、朝の駅が動き出した様子を見ようと、きょうの朝の散歩はこの駅周辺を散策することにした。電車の写真を撮るマニアでもないし、カメラを持って行かなかったが、記念入場券を買って帰宅。あとでまた行って撮影することにする。
 我が家はこれまでJR千里丘駅(徒歩8分)を利用してきたが、これでこれからは阪急摂津市駅(徒歩4分)との選択になる。梅田まで各駅停車で21分だから、JRの15分よりは時間がかかる。しかし、徒歩4分の便利さは魅力だし、この線は地下鉄堺筋線への直通もあるので、利用の仕方によっては極めて便利だ。また、京都へ行く用事のときは、阪急が便利なことが多い。これで、徒歩13分以内の最寄り駅が4つになった。(あと2つは、モノレールの摂津と沢良宜)
<写真>

2010.3.13(土) 日常からの脱出  

 今日は、床屋へ行った後、歩いて阪急南茨木駅近くのハンバーガーを食べに行き、そこからモノレールで万博公園へ。1枚の招待ハガキを持って。

 まずは腹ごしらえ。南茨木のBerry's cafeという店は初めてで、一度ここのハンバーガーを食してみたいとかねがね思っていたのを実現させたのだ。

 これは驚きだ。パンの大きさは、直径で15センチ。中身もたっぷりで、アボカド、たまご、ベーコン、トマト、レタス、それにもちろん肉が入っている。ポテトが付いて1100円。飲み物は別。テーブルには、いくらでも好きなだけかけて下さいとばかりに、ケチャップ、マスタードが大きな容器で置いてある。私はコーラを注文し、懐かしいボトルで、そのまま飲む。コーラの飲み方はこれに限る。
 この大きさは、KUA AINAの比ではない。パンはカリっとしてうまい。たまご焼きは、佐世保バーガーみたいでうまくマッチする。アボカドが肉に合うのはKUA AINAで実証済。肉には味付けがなく、癖のない美味しい肉だ。
 私は一気に完食。あとで思ったのだが、これを昼に食べたら、今日は夕飯無しでもよかった。それぐらい、食べごたえのあるハンバーガーなのだ。
 このごろ、独自色のあるハンバーガーが各地にあるが、これはいいかも。唯一の欠点は、高カロリーだろうということ。それが心配な人は食べないことだ。

 万博公園にいつものパスポートで入り、本日オープンのEXPO’70パビリオンへ。午前中に開場式典があり、私は午後のファッションショーの招待が当たったので、万博パビリオンのユニフォームの復刻版で行われるファッションショーを見て、その後、万博の展示室を見ることができた。
 万博が私の人生の節目であったこと、今年がその40周年で、こうして記念行事が行われていることから、何かいろいろ思い出されて、感動してしまった。

 ハンバーガーと、EXPO’70の40周年。2万2千歩あるいたので、カロリーは消費できたかな。


2010.2.27(土) 銀メダル 
 

 バンクーバーオリンピックが終わりました。昨日のフィギュアで事実上ほとんど終わったという感じ。今季の真央ちゃんの不調から見れば、銀メダルは出来過ぎ、最高の結果だったと評価しましょう。それ以上にキムヨナの出来は良かった。

 今シーズンは、採点の基準が、出来栄えのほうにシフトしていて、それがはっきりと出た大会でした。点のメリハリが顕著でした。
 ジャンプなどの要素の点数では、トリプルアクセルの基礎点の設定が低すぎる。この採点基準のルールをもう少し何とかしないと、いくら世界初だとか言って称えられても、点にならない技に挑戦した真央ちゃんが可哀そうです。
 何年かたってみれば、歴史的快挙だったと評され、今後基礎点も上げられ、これからはみんな挑戦しないと点が取れないから挑戦するようになる、と思っています。今の基礎点では、アクセルを入れるのは勝手だが評価はしないよと言っているようなもの。
 荒川静香が、点にはならないがイナバウアーを入れたように、わずかな得点でも上を目指し、日本の選手だけがこだわっているアクセルに果敢に挑戦した真央ちゃんには、絶賛したいと思う。
 トリプルアクセルは、伊藤みどりが先駆者で、今から数年前は、全日本選手権でも、数人が挑戦していました。恩田よしえ、中野友加里、浅田舞、他。そういえばだいたいみんな名古屋です。今回の五輪出場の3人とも名古屋。

 ところで、カナダのロシェットさんは、直前に母親が亡くなり、あの状況で、これほど繊細な競技に出られるものとは思えない。観客の大声援もあって良く頑張った。感動でした。母親の支えで演じたという話、「真央が果敢にアクセルに挑戦するのを見て悲しいことは忘れて燃えた」という話はうれしい。しかし、フリーではミスが目立ち、どうしても評価は低くなったと思いきや、演技点が何と、キムヨナに次ぐ高得点で、浅田真央よりも高かった。演技点は9人のジャッジが印象で付ける点数から抜粋して平均する方式で、環境や心情に左右される面は多少やむを得ないところですが、やや付け過ぎ。もうちょっとで真央の銀メダルを上回るところでしたし、その憂き目にあい4位になったのが長州未来。最終滑走の長州未来の演技が終わった後、点の発表が妙に遅れたのが、気になります。 演技点と技術点は、半々ぐらいのウェイトなので、とても影響が大きいのです。東洋の選手が上位を占める時代になった今の女子のフィギュアにおいて、それをに待ったをかけるヨーロッパ中心の審判たちの抵抗かもしれません。
 しかし、結果的には順位は妥当でした。何かが起きるオリンピックですが、何も起きなかったのが今回の結果でした。
 真央ちゃん、4年後は23歳。まだまだ、今のロシェットの年齢よりも若い。これから4年間は、また長い。目の前の大会を、どんどんアクセルで決めて制覇していってほしい。

 日本のフィギュアスケートは、男子が初メダル、女子は2大会連続メダル。願いたいのは、かつてスキーのジャンプが日本のお家芸だったのに規定改正で日本が不利になったような、ああいう規定改正をしようなどと考える動きがISU(国際スケート連盟)に出ないことだ。


2010.2.11(祝) なみはやドームから応援します 
 

 昨年暮れのフィギュアスケート全日本選手権大会が、ここで行われたことを知る人は知る。テレビで見ただけの人が多いと思う。実は私もチケットが買えず、テレビ観戦だった。だからというわけでもないが、せめてあの真央ちゃんたちと同じ銀盤の上に立とうと、きょうは、なみはやドームのスケートリンクへ行ってきた。9:20am

 冬季は大会などが無い限り一般営業しているリンクで、入場料は1500円なのだが、何と、特別に、年賀状の番号で該当すると無料になるのをネットで見つけて、貸し靴代400円だけで楽しむことができた。
 写真は9時の開場から20分経過時点。この後どんどん人が入ってきて、リンク内は大混雑となる。早起きは三文の徳で、私は混雑の前に滑った後、11時には引き上げた。

 さて、スケートは久しぶりだが、意外にうまく滑られるものだ。来場者のほとんどが親子づれや子供のグループ。私も含め初級者ばかりなのだ。混んでくるとリンクの中央が妙に空いていて、そこでは少し色んな滑り方ができる。クロス、バック、モホーク、スリーターンまでは若い頃に出来た感覚がすぐに戻ってくる。それに、ステップの真似ごとを調子に乗ってやり始めたら、もう厚着をしていた体は汗だくになり、足もガクガクに疲れて、何でもない時に、思い切り尻もちをついてしまった。フィギュアスケートの靴だから、ほとんど転ぶことなどないのだが、一日に1回ぐらいは転ぶもので、そうすると、「油断したな」と反省する。転ぶのを恐れたらうまくならないのだが、私の場合は、これからうまくなる必要も可能性もないので、無事に楽しめればいい。難しいことをしていない時に転ぶのは、まさに油断であり、初心に帰ってまた膝に体重を乗せて滑る。

 何年か前に、ここで日本選手のエキシビションを見たが、リンクで滑るのは初めてだ。バンクーバーオリンピックの選手たちに、氷上からエールを送るつもりで過ごした2時間。私もオリンピックの気分が盛り上がってきた。頑張れニッポン!

 ところで、なみはやドームの駐車場は、1時間360円だそうだが、私はドームのすぐ裏にあるコインパーキングで30分100円。知らないと損する料金体系です。但しここは、イベントがあるときは、駐車場を選ぶ余裕はないでしょう。

2010.1.17(日) 大震災から15年  

 1995年(平成7年)1月17日、この日は連休明けの火曜日。午前5時46分。
 大阪府吹田市の社宅で、家族で寝ていた普通の日の朝、私は飛び起きて、激しく揺れているタンスを押さえた。手の届かない所でステレオのスピーカーがドスンと落下し、子供の枕元をかすめた。人形ケースがバタンバタンと踊って、ガラスがガシャっと割れたが、それにかまってはいられない。揺れが収まるや、テレビをつけて何が起こったのか確かめようとしたが、まだ震度情報は出ていない。庭では植木鉢がごろごろ横になっている。電気はついている。いずれにしても神戸を中心に近畿地方一帯が大きな地震に見舞われたことは間違いない。余震も続く。私にとっては生涯もっとも激しく揺れた地震だ。幸いに、自分も家族も無事であり、被害は軽かった。
 さて次に私がとった行動は、仕事である。多くの被災者が、自分の家が全壊だったり、家族に死傷者が出ていても、それでも仕事に向かったことは、後にもあまり報道されない。昨日のテレビドラマで神戸新聞の人たちが震災の直後に取材をし新聞を発行する姿があったが、その人たちこそ、自分の家や家族が、大変な事態になっていたのだ。
 普段、会社に車で通勤することはあり得ないが、このとき私は、誰の許可も取らず、車で会社に向かった。電車はもちろん止まっているだろうから、何はさておき車で大阪市内の中心部へ。道路はどんどん混雑していく。普段でも通勤ラッシュだろうが、さらに混む。それは覚悟の上だ。車はほとんど動かないので、時折激しく起こる余震が、車の中にいてもわかる。結局会社まで3時間かかった。携帯電話は一般的でない時代、私も持っていない。途中で公衆電話から電話連絡をするのも非効率で、ようやくつながったのが北海道の実家だった。家族は無事だということだけを伝えたが、こうして家を飛び出しているので、今も無事かどうかはわからない。ラジオが情報収集の頼りだ。被害状況がどんどん拡大していく。死者の数が数名から始まり、どんどん桁が増えていく。でもまだ死者の数ぐらいでは、どれほどの被害なのか、よく分からなかった。これは大変だと体がぞくっとするのを感じたのは、阪神高速道路が数百メートルにわたって倒壊したというニュースが流れた時だ。
 私の人生は、この日を機会に変わったと言える。その後、神戸を中心に、業務の復興に携わることになり、まさに色んな人に会い、色んなことを体を張ってやってきた。食糧・飲料を持って歩いての移動、瓦礫を縫ってバイクで走る、液状化現象の泥の道を走る、鉄道の不通区間をバスでつないでの通勤、粉じんで声が出なくなった日々。燃え尽きた菅原市場の焼け跡には、無念の死を遂げ遺骨となった人々がいた、と思う。
 震災から、人と人の絆が強くなったと言われる。今日失われつつある絆が、多少この辺りにはあったのではないだろうか。「がんばろう神戸」を合言葉に、オリックス・ブルーウェーブがパリーグ初優勝し、翌年には日本一になった。その後2年間、私は会社の人たちといっしょに、休日に仮設住宅の訪問を続けた。
 この震災の後にいくつか起こった大地震は、報道もされ、フォローもされるが、阪神淡路大震災は、死者6434人という規模であり、この震災で人生が変わり、この震災を忘れるわけにはいかない人々が何十万人もいることを、世の中の人々にはぜひご理解いただきたいと願うのである。



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