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最近思うこと(日記・エッセイ)
2005.9.27(火) ルーツ

 
私の出身地である北海道山越郡八雲町が、間もなく10月1日に隣の熊石町と合併して、北海道二海郡八雲町となる。日本で唯一、二つの海、「太平洋」と「日本海」に面した市町村の誕生となる。朝は太平洋の日の出を拝み、峠を越えれば日本海に沈む夕陽が見られる町。新しい「八雲町」を、あらためて私のルーツとして大切にしていきたい。
 北海道の人は、そこに住む前に、どこかから来たというケースが多い。明治以降の開拓移民だ。私の場合はどうなのか、今までに聞いた話や八雲町史にある記録を元に推定できるところは、次の通りだ。

 八雲町の開拓は明治以前から自然体で松前藩によって行われていた。その北限が八雲町に今もある日本最北端の「山越関所」だったから、八雲町の南部にあたる野田生、落部には江戸時代に間違いなく、先住のアイヌ人ではない和人が住んでいた。当HP同郷の掲示板でもおなじみのさりー氏は、その家のひとつになる。
 今の八雲町の中心部のあたりは、明治11年から尾張徳川家によって開拓された。「徳川農場」を中心に、徳川家の支援を受けて開墾が進められた。尾張藩の明治以後は、どちらかというと日の当たらない状態で、多くの士族たちが新天地へと送り込まれたのだ。この開拓第一陣には、同級生の角田氏の家が。その後続々と尾張から移民が行われ、明治22年には、大水害のあった愛知県小牧市から大挙して入植した。小牧市と八雲町は現在も友好姉妹都市になっている。じゅがいもから、でんぷんを造って八雲の主産業にしたのは、同級生の梅村氏の家だ。
 アイヌ語の地名に漢字を当てはめた都市名が多い北海道においては珍しい「八雲」という和名は、最古の和歌といわれる「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるこの八重垣を」から取ったもの。
 八雲町に八雲神社がある。名古屋の熱田神宮といえば、誰でも知っている大きな神社だが、その熱田神宮の「分宮」が一つだけあって、それが、八雲神社なのだ。尾張名古屋と八雲町が切っても切れない関係にあることは今でもこうしたところに見られる。

 さて、私の家のルーツはというと、比較的新しい方に属することがわかっている。
 明治24年、野田生に尾張から入植した一団のひとり。それが私の父の生家となる。
 大正3年、加賀(石川県)から団体で入植した中に、usu家があった。私の父は、幼少の頃にこのusu家の養子となった。usu家の爺さんは商人で、婆さんは庄屋の娘だったと聞いている。爺さんは、きつね(つまりキタキツネ)の毛皮を作ってアメリカに輸出していた。一匹まるごとの形の毛皮だ。
 私の母の方は、年代は不明だが、爺さん婆さんともに愛知県春日井の出身で、八雲の学林(今の春日)に入植した。どちらの爺さんも婆さんも、私の幼少の頃には元気だったので、十分に記憶がある。
 私は開拓3代目。開拓者はすなわちパイオニア精神にあふれた人たちだったと思うが、その血を引き、生まれ育った土地を離れ、どこででも生きていこうとする。八雲町出身の人たちにはそんな血が流れているように思える。


2005.9.18(日) 東京ディズニーシー一人歩き

 
東京ディズニーシーへ一人で行ってきた。一般的にここは50代の男が一人で行くようなところではない。年齢、男女を問わず一人で行くようなところではないことは承知している。大阪のユニバーサル・スタジオも2度ひとりで行った私は、あまり気にせず、自分のペースでどこでも行ってしまう。要は、興味さえあれば、どこでもいけるし、行けば必ず何かの収穫がある。

 ディズニーシーは初めてだ。ディズニーランドは、福岡のH本主任親子とウランちゃんと一緒に行った一度だけだ。東京ディズニーランドができたときから、ここは我が社の同業ライバル会社がスポンサーの一角を担っていて、そのことだけで私はディズニーランドを敬遠してきたのも一因にある。

 世の中では3連休の真ん中の日、一日ぐらいは遊ぶ日があっても良いだろうと考え、朝起きてから決めて出かけた。舞浜の駅から、人に聞きながらディズニーシーの玄関まで歩いていった。あとでわかったのだが、普通の人はディズニーリゾートラインというモノレールに乗って行くものなのだった。

 さて、私はどうして一人で行くのか。答えは一緒に行く相手がいないだけのこと。単身赴任生活において、これは宿命であり、間違っても、どなたか女性を誘って行ったりしたら、年齢を問わず大変なことになる。グループで行くというのもあるかもしれないが、なかなか都合が合わない。いや、誰も誘ってくれるはずが無い。それに、私の行動の仕方は、人と同じペースにならないので、難しいかも。

 11時頃に入園し、見るもの全てが初めてなので、随所でカメラを構える。都内の公園などで花の写真を撮るオジサンたちとは違い、ここにこんなスタイルの人は来ない。周りをどれだけ見ても、一人歩きの人はいないのだ。

 連休だから、相当な混雑を予想していたが、道を歩くのに支障があるほどの混雑ではない。愛・地球博のときのような、食事ですら長時間並ぶような状態は無い。しかし人気アトラクションは長い列で、私はそれらに一切目もくれない。ジェットコースターの類に弱い私は、ソフトな乗り物以外は敬遠する。ただ園内をぶらぶらと散策し、雰囲気に浸るだけでいいのだ。

 ここはアメリカだ。ユニバーサルスタジオもそうだが、徹底的にアメリカづくしで、アメリカ旅行ができたような気持ちになれるところがいい。細かいところまで気を使ってアメリカを再現している。園内どこでも流れている音楽、色々何度も行われるショーは、レベルの高い歌唱とダンスが見られる。食べ物もアメリカだ。

 昼食はハンバーガーにする。カントリー調のフード店で、オープン席で食べる。昼なのに席は空いている。その後、蒸気船で園内の海を一周するのがあり、30分待ちだったので、並んで乗ることにした。私がきょう、園内で乗ったのはこれだけ。

 園内で大きな存在感を示しているのは、火山と豪華客船。客船が停泊する場所は、20世紀初頭のニューヨーク港なんだそうで、船内にはバーやレストランもある。タイタニックの映画で見た、あんな感じが出ている。
 
 午後2時30分から、海を舞台にして行われるショーは、スケールが大きく、音楽もいい。ミッキーなどのディズニーキャラクターが主役になるのは当然で、楽しい雰囲気が一杯に出ている。

 きょう私は、全部で5つのショーを見たことになる。そして正確には、一つを4回見たのがあるので、延べ8つのショーを見た。アトラクションを敬遠した分、いつでも見られるショーは、背の高さの利点を生かして、事前に場所取りなどしなくても見られる。
 さてその、4回も見たショーとは。ブロードウェイ・ミュージカルのエキスを集めて構成した「アンコール」だ。大きな劇場の中で行われるので、開演時刻ギリギリに行っても入場できる。本物のブロードウェイの劇場みたいな雰囲気。一日5回の上演だが、私は、何度も何度も、ついに4回も見てしまった。聞き覚えのある音楽が盛りだくさん。ウェストサイド・ストーリーもあった。マイフェアレディは、もう少し細い人がいいなあと思った。キャッツの「メモリー」は歌唱力抜群で、劇団四季とは全然違う。コーラスラインのラストの曲「ワン」は、メロディーとダンスが素晴らしい。昔、ニューヨークで見たコーラスラインのシーンを思い出させるものだった。最終回のとき、このシーンを見て、思わず体がリズムを取り、歌詞の一部を口ずさんでしまう。感動で何だが出る。そうだ。ミュージカルの歌詞は全て原語、つまり英語で演じている。劇場の中と外の造りも含め、完全にブロードウェイを再現しているのだ。出演者の半分以上がアメリカの人のようだ。切れのいい黒人ダンサーもいる。きょうの収穫はこれに尽きる。これだけのために入園料を払ってもいいと思った。

 夕食は少し早めにとった。ニューヨーク・デリカという店で、アメリカ特有のサンドイッチを食べた。のどが渇いたので生ビールも飲んだ。ニューヨークなどでよく見られる安い食事処、デリカテッセンがそのままだ。

 夜のショーは、8時5分に始まる。水と火のショーだが、人だかりで見えにくいのが難点。風下に来てしまったので水しぶきを浴びた。その後の花火の打ち上げは、強風のため中止になった。そういえば、昼間の暑さから心地よいそよ風に変わり、涼しくなっていた。

 帰りもイクスピアリまで歩き、いつものKUA’AINAで二度目の夕食をとってから帰った。ディズニーシーは、ディズニーランドには無い本当のアメリカの再現と、大人の雰囲気があって、その意味では、ユニバーサルスタジオに似ている。収穫のあった一日。

 きょうの写真は、写真集に。
 

2005.9.17(土) 粗大ゴミ

 
2年前に購入したプリンターが、徐々に色が悪くなり、何度もヘッドクリーニングをしたり、調整をしては使ってきたが、ついに最終的に、青色が全く出ていないことがわかった。修理をするよりは買った方が良いと判断をして、新しいのを購入した。某量販店に行って色々見てパンフレットをもらい、機種選択をじっくり行った上で、価格・コムで最安の店を見つけ、秋葉原まで行って買ってきた。税込み2万円。量販店はこれよりも2割高いし、ポイントが1割付くのを割り引いてもまだこちらの方が安い。
 2年前のプリンターと同じぐらいの機能の機種なら、1万円で買える。今回のは2年前に購入したときの1万9800円とほぼ同じだが、さすが、かなりの機能アップで、きれいな印刷ができる。

 古いプリンターはどのようにして廃棄するべきか、色々調べて、結論を出した。「粗大ゴミ」に出す。色々考えた選択肢は、次の通り。

1.リサイクル品の回収業者に出す。
  ⇒電話して聞いてみた。テレビやパソコン本体なら、故障していても無料で回収するが、
    プリンターは対象外で、有料回収。金額は聞かなかったが、やめた。

2.ネット・オークションで、ジャンク品として低価格で出品する。
  ⇒ヤフオクで、同種の出品があるかどうか見てみたが、ほとんど買い手が付かないみたいで、
    また、私の故障の状態から見て、さらに難しそうなので断念。

3.不燃ゴミで出す。
  ⇒不燃ゴミで出せるのは、長辺30センチ以内のもの。
    プリンターは明らかに40センチ以上だからダメ。
    分解してばらばらにするには、ちょっと荒業が必要になるのであきらめる。

4.だれか個人的に、もらってくれる人に渡す。
  ⇒自分の手で修理をするような希少な方をさがすほうが難しい。
    しかも、2年も使って壊れたものだから、修理してもまたどこか壊れる。
    
5.粗大ゴミで出す。
  ⇒これが最終結論。
    東京都の粗大ゴミは、粗大ゴミセンターに電話するかネットで申し込む。
    私は昨日ネットで申し込んだ。品目が詳細に掲載されていて、そこから選択する。
    高さ20センチ以下のプリンターは200円。
    その金額のシールを貼って名前を書いて出せば良い。
    シールは、指定の販売店で買う。私は錦糸町の八百屋「やおしょう」で買っておいた。
    あとは、指定の27日の朝に出すだけだ。

 東京都の粗大ゴミの出し方が勉強になった。


2005.9.6(火) 今度の投票日

 
住民登録は大阪の自宅になっている関係で、大阪にいた先週末、総選挙の期日前投票というのを体験した。摂津市では、ちょうど同日に市議会議員選挙が併せて行われるようだが、これは日曜日に告示されたばかりで、期日前投票ができるのは月曜日から。
 従って、私が日曜日に期日前投票を行ったのは、衆議院議員選挙と、最高裁裁判官信任投票。これに市会議員選挙も投票したら、いったい9月11日、摂津市民はどんな投票になるのか、想像すると面白い。
 まず、受付を経て、
  @衆議院の選挙区の投票用紙をもらう ⇒A記入場所で書く ⇒B投票箱に入れる
  C衆議院の比例区の投票用紙と、裁判官の投票用紙をもらう
    ⇒D記入場所で書く(裁判官の用紙は不信任が無ければ何も書かない)
    ⇒E比例区の投票箱に比例区の投票用紙を入れる
      F裁判官の投票箱に裁判官の投票用紙を入れる
  G市議会議員の投票用紙をもらう ⇒H記入場所で書く ⇒I投票箱に入れる
つまり、投票用紙は4種類、投票箱も4つある。間違いなくできるのだろうか。これだけあれば、投票のやりがいもあるか。摂津市民の皆様、がんばってください。


2005.8.27(土) 浅草サンバ・カーニバル

 
東京在住3年目にして初めて「浅草サンバカーニバル」を見た。浅草はいつものウォーキングコースだから、気軽に出かけられる。本場ブラジルのリオのカーニバルは観たことが無いが、ここのカーニバルは今年が25回目と結構歴史があるので、そこそこ熟成された感がある。途中で帰ろうかと思ったが、念のため、パンフレットを持っている中年の夫婦に「まだ続くんですか」と聞いたら、「これからの8チームがすごいんです」と言われ、私は迷わず最後まで見ることにした。午後2時頃から6時までの4時間、沿道に立ちっ放しで、サンバの音楽に浸り、写真もずいぶん撮った。しかし動きのある写真で、しかも人垣の中で撮る写真は難しい。
 外国人も多いが、大半は日本の人たちが踊っている。24チーム、4500人の大イベントだ。

 今回の写真は、Yahooフォトアルバムを使って掲載したので、観ていただくのがちょっと面倒かもしれない。その代わり、拡大して大きく見ることもできるし、スライドショーで見ることもできます。


2005.8.27(土) 朝の山手線通勤

 
錦糸町から駒込までJRで通勤するようになって2週間が経った。朝の通勤ラッシュがどの程度のものか。総武線の各駅停車は秋葉原まで通常のラッシュの混雑。そして秋葉原から駒込までの14分間、私は毎日必ず座っている。途中駅でたまたま席が空いたら座るのではない。来る日も来る日も、必ず秋葉原から座れるのだ。都心の山手線で、通勤ラッシュ時間帯に座れることなど予想外だった。混雑する方向とは逆なので、少し楽なのかなと期待はしていたが、こうまで楽だとは、毎日の通勤がむしろ楽しめる状態なのだ。
 しかし、学生の夏休みが終わると、もう少し混むのかもしれない。きょうまでのところ、10日連続して座れた。連続「秋葉原から座れた」日数は、果たして何日続くだろう。


2005.8.26(金) 富士登山から1週間

 
先週金曜日の夜から土曜日にかけて富士山に登り、日曜日はゆったりと過ごした。そしてそれからの1週間は、強い紫外線を浴びて日焼けした顔がひと皮むけて、足の筋肉痛もなくなり、体調は完全に元に戻った。登っているとき、下っているときには、年々体力が落ちていることを実感しながら、もうこれで最後にしようと考えながら、ひたすら家に帰って寝ることだけを考えた。いったい何のためにこんなに苦しんでまで登るのかと、自分に問いかける。それでもやはり1年経つと、また登ろうかと思ってしまう。
 1週間経った今頃は、既に微妙な時期だ。やっぱり来年も、8合目ぐらいまで登ってご来光を見るのならいいかな、と思うようになってきた。


2005.8.16(火) 地震

 
午前11時46分、宮城県沖地震で震度6弱。東京では震度4だったようだが、地上22階となると、揺れは増幅して長時間になり、大変なことになる。昨日そのことを書いたとたんにきょうの地震だった。

 そのとき私は外出していて、走行中の電車の中だったから、揺れは全然わからなかった。最寄り駅で停車した直後の山手線の車内放送。「ただ今たいへん強い地震がありましたので、運転を停止します」といった内容だった。乗客は普段どおりに、ただ待っている。地震でなければよくある光景だ。私もしばらくは車内で立って待ったが、よく考えてみると、先日の地震ではあらゆる鉄道が何時間も止まったことを思い出し、ホームへ出て会社に電話を入れ、改札を出てタクシーに乗り、ワンメーターで12時には着いた。

 最近地震が多いのが気がかりだ。ビルの中は、落下物の危険がない場所であれば安全だ。しかし、揺れの大きさは高いビルほど相当なものになり、気分が悪くなるほどのユラユラになる。これぐらいは覚悟しておかなくてはいけない。


2005.8.15(月) 終戦記念日のきょう

 
終戦から60年。戦後生まれの私にとって、戦争がどんな意義をもつのかといえば、それはそれは、大いにあるのであって、敗戦があったからこそ、今私たちが生きる日本があり、私の存在もあるのだ。父母の世代は、戦争前後の日本で生き抜いてきた世代。私が親から聞いたもの、見てきた貧しさ、これらが私を形成してくれたことは間違いない。
 日本では終戦記念日。中国では日本降伏の日。韓国でも日本から開放された記念日になっている。日本だけが敗戦の記念日であることに、私はむしろ良かったと思う。

 終戦記念日のきょう、東京の夜は激しい雷雨となった。

 会社の事務所が移転で、きょうから新しい勤務地へ通勤。錦糸町の職住接近から、一気に遠くなり、通勤定期を持つ身になった。通勤所要時間は4分から40分へ10倍に。それでも40分なら、東京では極端に近い方だ。
 暑い朝の通勤では、上着を脱いで持ち歩く。しかし、それでも汗は吹き出る。電車の中で新聞を読む、イヤホンで音楽を聴く、これら全て、この2年間にはできなかったことばかり。通勤時間は、あっという間に過ぎてしまう。きょうの電車は、当然のことながら、ガラガラに空いている。お盆の最中に都内の交通機関がこうなるのは予想通りだが、電車通勤最初の日だから、私にはちょうど良いリハビリ通勤だ。
 どんな音楽を聴いているかというと、ごちゃまぜの曲で、ジャパンポップスからミュージカル、オペラ、クラシックまで、なんでもあり。次々とかかった曲を聴いているだけ。音楽は楽しい。通勤も楽しい。
 私がこれまでに勤務した場所の中では最も高いところになる22階。エレベーターで耳がキーンとなるようなところは初めて。地震の時は船酔いをするのだろう。新居で気分を一新し、仕事もマンネリから脱出するか。


2005.8.6(土) 江戸川エキサイティング花火

 
今年も江戸川の花火大会の日がやってきました。現地到着10時35分。念入りに場所取りの隙間を捜すこと約30分。今回は、いつものような前の方ではなく、土手の斜面。すわり心地は悪いが、見るにはこれも良いかも。
 この花火大会は、8つのプログラムがある。8つしかない、とも言えるが、この、一つ一つのプログラムには、テーマがあって、音楽もいい。そして、それぞれ、花火をふんだんに集中して上げる。これらを総合して、私はこの花火大会を「日本一」と評価している。だから、東京へ来て3年目、毎年欠かさずに見ている。しかも、打ち上げ場所に近い所に場所をとる高度なテクニックを使って。
 今回は、カメラを持っていかなかった。花火の写真は、いくらうまく撮ろうとしても、実際に見るものに優ることは絶対にない。花火の写真は撮らないことにする。
 さて、8つのテーマそれぞれに論評をしても、読んでくれるのは行った人だけだと思うので、やめておく。でも、少しだけ簡潔に書きます。私が感動で涙を流したのは、「2.蒼き山脈」「5.実りの季節、秋」「7.BUN BUN BUN」そして最後の「8.グランドフィナーレ」。もちろん、全部良かったが、特にこの4つは、わなわなと泣いてしまった。私でも、花火大会で感動に涙することはさほど多くない。この大会は、押し寄せる迫力に、平常心でいられなくなるのだ。但しこれも、間近で見ればこそである。暗いから、どれだけ泣いてもいい。涙なんか拭かなくてもいい。汗と一緒だ。
 こうして、今年の「江戸川エキサイティング花火」は終わった。今回が30回目だったそうだ。


2005.7.29(金) 灯りの点いている家に帰るのは

 
単身生活の宿命は、一人暮らしの人は皆そうだと思うが、帰宅時、真っ暗な家に入って電灯をつけること。この季節は、澱んだ空気で蒸し暑い家に入ることになる。
 しかしきょうは、帰宅すると、外から見える私の部屋に灯りが点いていて、なにかほっとするような雰囲気を感じた。またやってしまった。朝つけた蛍光灯の消し忘れ。


2005.7.26(火) 「橋」にはロマンが

 
橋を見ると、心がウキウキするような、落ち着くような、私にとって橋はとても大切なものだ。自然の美しさとはまた違う人工物の美がある。という難しい話じゃなくて、橋を眺めたり渡ったりすることに、色々な想い出がある。橋があると、つい私の足は、そこに止まってしまう。レインボウブリッジに惹かれるのもそのためだ。

 生まれ育った八雲町、自宅から国の子保育園へ通う道の途中、遊楽部川にかかる橋がある。国道だから立派なコンクリートの橋だが、架け替えの工事が行われていた時には、木製の仮橋だった。並行して函館本線の鉄道が走る鉄橋がある。

 トコタンのおばさんの家に行った時、そこは農家の広い敷地だが、家の近くに幅2メートルぐらいの川があって、そこは丸太2本を渡しただけの橋だった。小さかった私は、一人では渡れず、迎えに来てもらい、私を背中におぶって渡ってもらた。

 関門橋を見たのは結婚して子供も3人、家族そろっての旅行の途中だった。海峡をまたぐ雄大な橋に見とれた。記念写真を撮ったりしたのは言うまでもない。

 鳴門海峡の鳴門大橋は、徳島の阿波踊りと海水浴の帰りだった。橋の途中で車を降りて、渦潮を見ることができる。そしていままだ新しい明石海峡大橋。これで四国と本州がたった2本の橋でつながっている。世界最大のつり橋、明石海峡大橋が、現実に出来るなど信じられないことだった。
 
 海外旅行でも私は橋に注目する。

 ニューヨークのブルックリン橋は、石造りの橋脚。マンハッタンの東側、イーストリバーにかかる大きな橋だ。歩いて渡ることが出来るので、一度渡ってみた。美空ひばりの名曲「川の流れのように」は、作詞者が、このイーストリバーのゆったりした流れをながめて作ったものらしい。橋の上やたもとから、マンハッタンの景色が見える。ニューヨークの写真として良く出てくるショットだ。ただ、9・11以降は、その景色がすっかり変わってしまった。

 パリのセーヌ川を巡るバトームシューに乗ると、いくつかの橋が見られる。どれも、パリの街の光景をなしている。川と橋の調和がパリの風景なのだ。

 ロンドンにはテムズ川。ビッグベンの国会議事堂と橋の風景はロンドンの象徴になる。橋の上を赤い二階建てバスが行く。川沿いのプロムナードを歩くと、心が落ち着く。古いガス灯が等間隔で並んでいる。
 タワーブリッジも有名だ。眺める建造物だが、ここは一度タクシーで渡ってみた。交通量が多く、車道が狭い道路。渋滞があってもいらいらしない道だった。

 北京では盧溝橋(ろこうきょう)。いまは観光用として入場料を払って渡る伝統の石橋だ。美しい。石畳の大きな石がすり減って、そのままになっている。欄干には無数の狛犬のような石の彫刻。こんな美しい橋が、日中戦争勃発のきっかけとなった「盧溝橋事件」の戦地であり、今も抗日戦争の記念物として扱われ、近くには抗日戦争記念館もある。

 皇居の二重橋。正式には「正門鉄橋」、つまり皇居正門の鉄製の橋という意味。一般参賀のときにだけ渡ることが出来る、日本の橋の象徴である。

 レインボウブリッジはお台場に渡る巨大なつり橋。海にかかる雄大なこの橋に、私はこの上なく惹かれる。昼も夜も美しい。高速道路と一般道路、そして「ゆりかもめ」の線路も、さらには歩道もあって、私は何度もここを歩いた。この橋は、モノレールから見える。飛行機からも見える。お台場から見る橋は、自由の女神や東京タワーが入り混じって、いい景色になる。

 どこに行っても橋には表情があり、そこに歴史と生活感がある。特に気に入った橋は、いつまで見ていてもいい。


2005.7.24(日) 東京で地震が起きると

 昨日16時35分、東京で地震が起きた。私はちょうど錦糸町のアパートにいて、やかんに水を入れコンロに火をつけようとしているときだった。地震は珍しくないが、今回はかなり揺れた。揺れている間、食器がカチャカチャと音を立てる。それよりも、この揺れはさらに強くなるのか治まるのか、先が読めないので、ただ静まるのを待つだけだった。長い揺れが治まると、私のとった行動は次の通り。

 何よりも先ず時刻を確認。4時35分だ。次に火元を確認。火はつけようとしたところだったのだから、大丈夫。
 自分のところは無事だとしても、この地震の中心がどこなのかを知らなければならない。自分のところが中心なら、他にこれ以上の被害はないだろうから安心できるが、ここが中心でなければ、もっと揺れているところがあるはずだから、まずそれを把握したい。それによって次の行動のとりかたを考える必要がある。阪神大震災のときもそうだった。大阪の吹田市にいて、物が落ちるなどかなりの揺れだったが、それが神戸を中心にあれほどの地震災害になっていることを把握するには時間がかかった。
 テレビのチャンネルはNHKにする。パソコンで気象庁の地震情報のページを開くがまだ出ない。何度か更新をすると、4時37分に情報が出た。「震度5弱」が千葉県北西部。テレビでも続々とテロップで震度が出る。東京都墨田区吾妻橋(これはたぶん区役所の所)で震度4だから、うちも震度4ぐらいかと確認する。足立区で「震度5強」と出たのは、地震発生から24分後の17時02分に出された震度情報。だんだん大きくなっていくのが阪神大震災の時のようで、不気味だった。そのうち余震も起こった。幸いほとんど感じない程度の余震だ。

 交通機関が止まっている情報がテレビで出始めた。ヤフーの路線情報で一覧にして見ることができる。新幹線、在来線、地下鉄、全てが止まっている。私には今から外出するべき予定もないので、電車が止まるのは問題ない。
 所用で前日から東京に来て14時26分東京発の新幹線で大阪へ帰った妻の乗った列車はどうなったか、JRのHPで確認する。のぞみ○○号と入力すると、現在その列車がどこを走っているか、あるいは止まっているかがリアルタイムにわかる。「16時45分現在米原と京都の間を走行中」と出た。次に京都に停車、そして定刻より少し遅れたが無事京都を発車し新大阪へ向かっている状態を確認した。

 次に、会社へ行かなくては、と考えた。これぐらいの震度になると、ビルの場合はさらに揺れが増幅するので、休日だから事務所に人はいないが、何か物的被害が出ているかもしれない。また、ニュースで見る限りでは、大きな被害もないようだが、もし会社関係者に被害があれば対応を要するので、そのためにもまず会社へ。といっても徒歩4分だから、すぐに会社に着いた。
 通用口で他のテナントの人が何度もカードリーダーがエラーになって入れず、あきらめようとしている。私がやってみると一度はエラーになったが、二度目はOKだった。エレベーターは動いている。事務所に入ると、額縁がゆがんだり、机の下の引き出しが出たり、イスが机から離れているものがいくつかあった。サーバールームへ行って見たが、異常があるのかないのかわからない。とりあえず、被害の程度は軽微で、世の中のニュースでも大きな被害は報道されていないので、災害時の安否確認などの緊急連絡はしないことを判断し、念のため関係者に伝えた。

 帰宅してNHKを見ると、交通機関の運行状況を画面の外枠で伝えている。選挙の開票速報のようなやつだ。おそらくこれは東京地方だけの放送だろう。それにしても、交通機関が復旧しない。最も早く復旧したのは都営地下鉄で、あとは何時間も動かない。東京メトロが全線再開したのは午後8時過ぎ。総武線や山手線も遅かったので、錦糸町からはどこにも行けない状態が続いた。錦糸町付近でも、道路は今までに見たことがないほどの渋滞になった。成田や羽田から飛行機に乗ろうとする人はどうなったんだろうかと案じてしまう。電車の路線は安全確認に相当な神経を使うのだろう。当然かもしれない。ディズニーランドのあるJR京葉線は午後11時35分に開通したというから、地震発生時に場内にいた6万人は大変なことになった。私なら、歩いて帰るところだ。
 
 電車は地震に弱い。鉄道網がまさしく網の目に発達している首都圏では、どこかの路線が止まることはある。しかし全ての路線の電車が止まったら大変なことになる。今回は土曜日だったが、これが平日であれば、約2倍の人が街の中にあふれることになる。私はいま徒歩通勤だが、今後の予定も踏まえて、徒歩で帰宅する方法というのも、一度ぐらい、運動を兼ねて実践してみたい。皆さんもいかがでしょうか。

 ところで、震度情報は阪神大震災以後にシステム化されて、各地の震度計からデータが自動的に色んなところに配信されるのだが、今回、足立区の震度5強が遅れたのは、データの集中によるオーバーフローだった、と今夜ニュースサイトに載っていた。東京で地震が起きると、予想外のことが起きる。本格的な首都大震災の襲来に備え、予行演習になったかどうか。まだまだ、みんな、大地震が来るのを本気で信じていない。


2005.7.22(金) 大阪のエスカレーター 
 大阪の「ヨドバシ梅田」店内。エスカレーターに乗っている人はみんな右側に寄っています。東京の人がその光景を見ると、奇妙な感じを受けるでしょう。この光景は、駅でも空港でも、とにかく大阪ならどこでもこれです。話には聞いたという人も、実際に見ると戸惑うもの。東京では、この反対だから、私も東京・大阪を行き来していると、右や左に使い分けをする。一瞬間違うこともあったりする。
 一般の旅行客はどうかというと、新大阪駅では、新幹線を降りて在来線に乗り換える人に時々混乱が見られる。乗り換え線の戸惑いと重なって、エスカレーターが右に寄ることまで注意が行かないと思う。
 そもそも、大阪でエスカレーターが右寄りに立って、左側は急ぐ人のために空けるということは、法律でも条令でもなく単に習慣なので、特にそれを注意したり文句を言ったりする人はいない。なぜこうなったのか。いや、東京はなぜ左になったのか、歴史をたどると、大阪では明らかに、エスカレーターが最初に導入されたデパートで、右側に寄るようにアナウンスしたことが始まりらしい。東京はよくわからないが、自然にそうなったのかもしれない。地下鉄の駅でエスカレーターの多い、特に長いエスカレーターのロンドンではどうか。答えは「大阪式」。つまり右寄りなのだ。
 では、地下鉄といえばパリのメトロ。ここでは「東京式」だから面白い。

 

2005.7.18(祝) 3連休 

 
3連休、終わってみれば梅雨明け宣言。世界中で異常気象の現象が起きているらしい。群馬県館林できょうの最高気温は37.1度。今年も暑い夏の始まりを予感させられる。
 大阪では、今朝も蝉の合唱で目が覚めた。大阪の暑さは、気温だけでなく湿度を伴うし、緑の少なさが、いっそう体感温度を上げる。炎天下で高校野球の予選が展開されている。気合いが入っているから、熱中症も無いようだが、これから甲子園の本大会まで、ずっと炎天下の試合が続く。日本の夏の一大イベントは、世界に例を見ない狂気のイベントでもある。
 暑い夏の到来を感じる暑い暑い3連休だった。


2005.7.9(土) LONDON 

 
ロンドンの同時多発テロのニュースが詳しくなるにつれ、これは東京でも起こりうることなので、東京と重ねて考えてしまったりする。それは余計な心配だとして、ロンドンのことは、私にはかなり実感があるので、よそ事とは思えない。

 ロンドンの地下鉄は古い歴史がある。大戦中は防空壕として使われた。それぐらい地下深いところを走っているのだ。日本の地下鉄は、古い路線は浅く、新しい線が地下深い。ロンドンは古い路線ばかりだが、みんな深い。駅のエスカレーターは地下へ何本も乗り継いで、長い。階段なんかほとんど無い。ラッセルスクェアの駅では、エレベーターしかなかったように記憶している。そして、電車が走る線路のトンネルがどれも狭い。従って電車の車内も狭い。
 「地下鉄」は、アメリカでは「Subway」、パリは「Metro」、そしてこのロンドンでは「Underground」。非公式な通称では「Tube」とも言う。チューブのように細いトンネルだから。そんな所で爆発が起こったら、逃げるどころか、救出作業もままならない状況になる。未だ死傷者の数が確定しないのは、線路内の捜索が進まないからだ。

 バスが爆破されたのは、ラッセルスクェアの近くだ。ここからは何度もバスに乗ったので、そのバスの2階部分が吹き飛んだ映像を見て、背筋がぞくっとする。二階建てバスの二階は景色がいいから、ついそっちへ座る。二階には座席がたくさんあるので、座れるということにもなる。とにかくロンドンでバスは最大の交通機関であり、あの赤いダブルデッカー(二階建て)は街の象徴でもある。ロンドンの交通に欠かせないバスと、そして密室性の高い地下鉄を標的にしたテロのやり方は、なるほどと思わせられる。


2005.7.7(木) 七月七日 

 
七夕の日、ロンドンで同時多発テロが起きた。このニュースを知ったのは、帰宅した9時半頃。昨日はオリンピックのニュースで、なじみの場所を思い出し、きょうはまた、爆発の場所を思い浮かべる。ラッセルスクェアは、大英博物館にも近いが、妻と旅行したときに泊まったホテル・ラッセルのある所。街のイメージは観光客の多い場所だ。同時多発テロが、かくも簡単に起こされる点が怖い。ロンドンのような大都市で、しかも、色々な警備ができているはずのこの街で起きたことがこわい。東京だってこわいのだ。

 7月7日は、盧溝橋事件の日だ。この日を記念日としている中国。近くにある抗日戦争記念館が、改装されて、きょうオープンだそうだ。700年の歴史のある美しい石橋、盧溝橋が、日中戦争の歴史を語る場所。中国がこの辺一帯を愛国教育のシンボルの場所としてきた中、私は3年前に盧溝橋を訪ねたとき、北京市内からバスを乗り継いで、言葉の通じないところを探し当てて行った。よくも一人で行ったものだと、今なら考えられない怖い行動だったと振り返る。
 

2005.7.6(水) 2012年ロンドン 

 
2012年のオリンピックがロンドンに決まった。ロンドンは、私にとって少しなじみのある街なので、イメージが沸く。トラファルガー・スクゥエアからの映像を見て、懐かしくて、妻に電話をしたら、よく覚えている場所だと言った。こういう都市で開催するオリンピックは、航空路線の便利さと宿泊施設の豊富さで、ひょっとしたら、気軽にフラっとオリンピックを見に行くことができるかもしれない。
 ロンドンの街は古い。ただその古さは、伝統の美しさ、というよりは、近代的な新しい物が古くなった老朽化であり、この状態ではオリンピックに支障があるから、きっと多額の投資をして社会資本の整備をするのではないかと思う。油臭い木の床の地下鉄車両には、とても機能的な都市交通の便利さなど期待できそうもない。メインスタジアムが無いから作らなければならない。赤い二階建てバスが数十台も数珠つなぎになる光景が珍しくない慢性的交通渋滞の問題など、マイナス面が多い。しかし元々ロンドンは多国籍の市民で構成される街なので、オリンピックのような国際的なイベントを受け入れる風土がある。3回もオリンピックを開催する都市なのだ。プライドの高いイギリス人が、その高い鼻を少し低くして、フレンドリーに世界の人を接待してほしい。
 
 今回の開催地選考は、パリが優勢だったはずだが、こればかりは最後までわからない。2008年の時もパリは接戦で北京に敗れた。今回、内容的には十分なところに達していたのに、またも惜しい結果となった。準備が進んでいるパリは、もったいないから、2008年の開催地に急きょ指名しよう。北京の開催は色々難しい問題がありそうだから、北京の辞退に期待しよう。


2005.7.3(日) 日本女子バレーボール 

 
バレーボールのワールドグランプリが、フジテレビの盛り上げ方も手伝って、人気を集めている。男子には興味がないが、女子の活躍には、つい目が行く。去年のオリンピック以来、久々のブームだ。メグ、カナがいなくなり、カオル姫が目立ちはじめ、キャプテンになった世界最小・最強セッター竹下の信頼感が際立つ。きょうのアメリカ戦は楽しみだ。但し、試合展開は厳しいものになるはずだ。


2005.7.2(土) 富士山 

 
昨日の夜のニュースで、富士山でご来光を見る光景。毎年この時期に必ずニュースに出る。山開きの日なのだ。去年は、ウランちゃん、ホークス頑張れ君、ともこさんら元福岡メンバー4人で登ったが、あいにくの天候で、頂上は霧の中だった。ご来光も見えず。
 となると、今年はぜひご来光を、と行きたくなるもので、体力的には棄権したいところだが、なぜか「今年も登ろうかな」という気がしてくる。本当に体力的にしんどい年代になってきているので、今度登っても頂上まで行けないかもしれない。
 今年は、行くとしたら8月の後半。



2005年7月1日-9月30日